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初めに日本へ渡来した仏典に、阿頼耶識(あらやしき)という言葉があった。阿頼耶識は現代で言う深層意識のことである。人の心の奥底にひそむ無意識層である。
阿頼耶識は、また一切種子識(いっさいしゅうじしき)とも呼ばれ、そこに宿った思念は、やがて開花し、実を結ぶ。すなわち、それは実現するのである。
実現するものは、望むものか、恐れるものかのどちらかである。いずれにしろ、強く思念されたものである。
人は、成功や富や健康を望み、強く思念すれば、それは、阿頼耶識に入り、実現してくる。しかし、不平不満の生活をし、未来を恐れれば、失敗、貧乏、病気なども実現させる。
肯定的、積極的に生き、感謝と愛に満ちた思いで暮らすべきである。そうすれば、豊かで幸福な日が訪れる。否定的、消極的に生き、愚痴と恐れの内に暮らすなら、その通りの暗い未来がやってくる。
いずれにしろ、人は自分の未来を選択しているのだ。プラスの思念が、阿頼耶識に入れば、プラスの未来が、マイナスの思念が、阿頼耶識に入れば、マイナスの未来が現れる。だから、幸も不幸も、その人の責任なのだ。
自分の気分を明るく暖かいものにし、他人も自分も共に幸せになるよう、願うならば、誰もが幸せになる。しかし、他人が不幸になっても、自分だけ得になればいいと、思っていると、自分に災害が訪れる。
幸せになるのは簡単である。自分も他人も幸せになるのを願えばいいのだから。
無理やりに力を入れて、成功しようとしない方がいい。それよりも、その願いを阿頼耶識に託し、日々を楽しく暮らすことだ。すると、それは、きっと叶ってくる。
他人を自分の意志で、思ったように変えようとするのは危険である。それは、お互いの阿頼耶識が争うからだ。
何か不安だったら、その不安の起こるもとを発見することだ。もし、経済不安だったら、お金を稼ぐ手段を探すことだ。
わずかなおカネでもいい。どんな方法でもいい。それが、人の迷惑にならないことだったら。その仕事を得たら、一生懸命に稼ぐことだ。そうすれば、不安も薄れる。
不安が無くなり、成功を夢見ていると、思わぬ知恵や、アイデアが湧いてくるものだ。
貧乏であることは、確かに、未来に対する不安条件ではあるが、この不安が生産のためのバネともなる。不安を克服するために働いている内に、大成功してしまうこともある。
人生においては、あなたの敵となる人を、遠避けねばならない時はある。ただ、そんな場合でも、出来るだけ穏やかに別れるべきだ。争って別れれば、その不快な感情は、阿頼耶識に不利な影響を残す。
「笑顔であれ」というのは、単に、良い人であれ、という意味ではない。これは、自分の阿頼耶識の中を、明るく保つ方法である。自分の身を守る手段なのだ。
現在のあなたの人生の状態は、かって、あなたが阿頼耶識に投入した思念の結果である。それは、人や環境のせいではない。あなたが考えていたことがタネとなり、稔った果実なのである。
千年を超えた大木でも、毎年現在でも年輪を一つずつ増やしている。それが生きていることなのだ。貯金は少しずつでも増やすことだ。それが自分の命を守り、他人に迷惑をかけないことなのだ。
自分が豊かになることを思念し、それを、繰り返し阿頼耶識に入れることだ。豊かになった幸せな気分を、先に満喫することだ。そうすれば、だんだんと豊かになってくる。
あなたと、あなたの友が、共に豊かになることを願えば、あなたは倍の早さで、豊かになる。
あなたが人を呪い、人生を呪い、運命を呪うならば、その呪いは、あなた自身のものとなる。
阿頼耶識には、善悪を考慮する力はない。だから、あなたにとって不利な願いでも叶えてしまう。例えば、反社会的な欲望でも・・・。気をつけることだ。
阿頼耶識を良く動かすために必要なのは、思考よりは、むしろ気分である。根アカで暮らし、感謝に満ちた生活を送ることだ。
プラスの願いを、プラスの気分で願えば、それは思念となり、阿頼耶識に入る。だが、プラスの願いを、マイナスの気分で願っても、お互いが相殺され、思念とはならないから、阿頼耶識には入らない。従って、その願いは叶わない。
マイナスの欲望を、マイナスの気分で強く欲すれば、それは強力な思念となり、阿頼耶識に入る。気をつけねばならないところだ。
阿頼耶識の采配は不思議で、奇妙なことが多い。何の関係もないところから、願いが叶って行くことがあるから、何でも、目の前へ来たことは、試してみることだ。
人の不幸は、正義を主張した瞬間から始まることが多い。思うに、正義とは、黙して行なうものである。他人に行なうことを強いるものではない。
世に正義が行なわれるように、祈るべきである。そうすれば、それ阿頼耶識に入り、他の人の阿頼耶識と連携して、正義は現れて来る。
何事であれ、人を強制してまで、自分の欲するようにするべきではない。欲することは、外に向かって求めるべきではなく、内に向かって、祈るべきである。
人の不幸は、愛を求めた瞬間から始まることが多い。思うに、愛とは、まず与え始めることである。すると、それは相手の阿頼耶識に入り、新しい愛の花に成長することもある。
欲するならば、まず、諦めることである。直接、外部に求めることを諦めるのだ。そして、阿頼耶の中で、それが得られたことを夢見ること。そうすれば、それが得られてくる。
心の中で、密かに、しかも強く願い続けること、それを「希望」と言う。
希望は行く手を照らす光である。生きる力である。そしてそれは、自分の手で、抱くものである。
望んだものを得てしまうことが、満足すべき人生ではない。望んだものを得るべく、目指しているのが、満足すべき人生なのである。
望んでいることを忘れている時間も必要である。なぜなら、その時間帯に、阿頼耶識が働いているからだ。
大きな願いが叶う時期が近づくと、小さな良いことが、次々と起きてくる。それは、阿頼耶識からの前兆である。
自分が選んだ人生を目指し、今を生きるのが、最高の人生である。
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